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  第32回
2009年7月17日(金) 18:30~20:30

「進化論の愉しみ方」
ゲスト:
JSTエキスパート・サイエンスライター、日本学術会議連携会員
渡辺 政隆氏

今年はダーウィン生誕200年、『種の起源』が出版されて150周年だそうだ。その進化論で知られるダーウィンは、一体どんな人物だったのか。渡辺政隆氏(JSTエキスパート・サイエンスライター、日本学術会議連携会員)が「進化論の愉しみ方」と題してお話してくださった。
『種の起源』は1859年に発行され、たった2日で完売したそうだ。しかし執筆から発行までに、なんと20年もの月日がかかっていたのだ。なぜか。現在、「偉大な予言書」と言われている『種の起源』は、当時のヨーロッパにとっては、たいへんな危険思想だったからだ。ではなぜダーウィンは、その危険思想を思いつき、公表するに至ったのだろうか。

チャールズ・ダーウィンはイングランド、シュールズベリーで6人兄弟の5番目に生まれた。ダーウィン家は代々医者の家系、母方はウェッジウッド家ということもあり、ダーウィンは裕福な家庭で育った。子どもの頃から周りの生き物に興味があり、植物や貝殻の収集をしていた。彼はエディンバラ大学で医学を学んだものの、良い結果を出せず、父はダーウィンを牧師にするため、ケンブリッジ大学に入れ、神学を学ばせた。しかし、神学ではなく博物学に傾倒したダーウィンは、博物学者のヘンズローと出会い、強い影響を受けることとなった。

 

1831年にケンブリッジ大学を卒業したダーウィンは、ヘンズローの勧めで、イギリス海軍の測量船ビーグル号に、ロバート・フィッツロイ船長の話し相手として乗船していた。その航海中にチリで大地震に遭遇、地盤がずれたのを見て、「地形は変化するのでは?」と考え、チャールズ・ライエルの斉一説から、その考えをさらに深めていった。
1835年に到着したガラパゴス諸島での彼の研究は、ダーウィンフィンチが有名だが、それだけではなかった。たとえば、ほとんどの人が、その見た目から「ウミイグアナとリクイグアナは肉食」と思っていた2種を解剖し、ウミイグアナの胃からは海草、リクイグアナからはサボテンを発見し、草食であることを証明した。他にもゾウガメの甲羅が島によってドーム型、鞍型、中間型の3種に分かれていることや、マネシツグミを何種か持ち帰ったところ、鳥類学者のジョン・グールドによって、同種であることがわかったなど…。それらを総合して、適応放散や生物多様性の可能性を見出したのだ。

しかし当時は「神が創造主である」という思想が信じられていたため、ダーウィンが自分の説を発表するには覚悟が必要であった。彼は自分の説は邪説なのでは?と考え、神経衰弱に陥りながら、多くの可能性と目の前のデータを見ながら思考を凝らした。そして「ヒトが家畜を改良することができたのに、神にできなかったはずがない」と、当時「生命の樹」と呼ばれた系統樹を思いついたのだ。多くの学者、友人、家族の支えを得て、『種の起源』は世に出ることとなったのであった。

 

数々の窮地に立ち、困難に直面しても、決してあきらめず、20年もの時間を掛けてひとつの結果を残したダーウィン。晩年の彼はミミズの研究に没頭したという。周りに存在するすべてに興味を持ち、愛おしく思っていたからこそ、なし得たことなのだろう。「進化と進歩はイコールではない。それを理解しなければ、進化論はわからない。ダーウィンの惜しむらくは、遺伝子を知らなかったことだ。」渡辺氏は本当に残念そうに、何度もそのことを話した。ダーウィンが遺伝子を知っていたならば…。そう考えると、今でもわからないことを、彼が解明していたかもしれない。知れば知るほど興味深く、わくわくしてくる人物だ。ふと見ると、いちばんダーウィンにわくわくしているのは、渡辺氏であった。



今回のデザートは・・・

ガラパゴス原産のコーヒーを使用したコーヒーゼリーと、相性のよいミカンを合わせた「さっぱりコーヒーゼリー」。渡辺氏は「コーヒーゼリーが溶岩に似ている」と絶賛でしたよ。

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