
・・・・ 今は亡い人だが、もと三高の校長を勤めた酒井佐保という古い教育者があつた。この人は自宅に居る折は、座敷に胡坐をかいたまゝ、すぐ手をのばしたら達きさうな巻き煙草一つ、自分からは手にとらうとしなかつた。袂のハンカチを取り出すにも、兵児帯の弛んだのを締めなほすにも、頬つぺたにとまつた藪蚊を叩くにも、きつと夫人か女中がを呼び寄せて用事を弁じさせたものだ。もしか窓の戸を明けてくれるものが居なかつたら、氏は蒸し暑い七月の真つ昼間にも、閉てきつた部屋のなかで捻ぢ麺麭のやうに蒸し焼きになつても、ぢつと居ずまひを崩さなかつたに相違ない。あるとき、家の者はみんな外出して、酒井氏と氏の阿母さんとたつた二人で留守番をしてゐたことがあつた。氏は煙草が飲みたくなつた。煙草盆は氏の胡坐をかいてゐるところから、二三尺さきの畳の上にあった。
「おい、誰か来てくれ。」
氏はいつもの癖ですぐ声をたてて喚いた。襖を開けて出て来たのは氏の老母であつた。酒井氏は初めて家の中に母子二人しかゐなかつたことに気が付いて恐縮した。氏は教育家だけに、どんなに人手が欲しい場合にも、阿母さんだけには物を頼まなかつた。氏は言ひにくさうに頭をかいた。
「阿母さん、申し兼ねますが、そこにある煙草盆をこつちに蹴飛ばして下さい。」
老母は笑ひながら煙草盆を氏の前に持ち運んでくれた。・・・・
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