サロン ド 冨山房 - Folio

08年7月18日(金)第22回サイエンスカフェを開催いたしました。

第22回 7月18日(金) 18:30~20:30
「愛という名の記憶 あるいは愛と共依存のはざま」
河野貴代美さん(元お茶の水女子大学教授心理カウンセラー )

今回のテーマである「愛という名の記憶」というのは、次の台詞からきているそうだ。「これは愛の物語ではない。記憶の物語だ。」ご存知の方も多いのではないだろうか。「マディソン郡の橋」という映画だ。「愛」について、河野貴代美さんがお話してくださった。今回は通常のカフェとは違って、スライドを使わず、河野さんが思ったことをお話してくださった。
前述した台詞だが、なぜ記憶の物語なのか。愛は変わらないと最後まで信じていた主人公は、なぜ変わらないと思ったのか。それは愛の記憶があったからだ。しかし、そこに生活はなかった。そのために短所が見えなかった。現実に、いわゆる運命の再会というものをはたして、やっとのことで結婚したが、「この人はこんな人だったか?」などという事態も少なからずあるだろう。結局は記憶の中の幻想が必要なのだ。
ところで「愛」とは何なのか。それについての答えを出した心理学者はいない。しかし「愛」とは自己言及的であるものだ、と河野さんは言う。なぜなら「愛している」「好きだから、こうしてほしい」「もっと一緒にいたい」などということは、自分の気持ちを表現していることになるからだ。「相手のことを想う」という客観的感情ではなく、「自分の気持ちを表現している」という、ごく単純な主観的感情なのだ。
記憶の中の幻想が必要であるならば、愛は幻想なのか。しかし、とてもリアルな感情だ。それも幻想なのか。いや、幻想そのものが強く働くことによって、人が生かされているのだ。「愛することができ、働くことができる人を、正常な人という」と、フロイトが言っているように、愛という感情は、人間誰しも備わっているものらしい。
「愛とは何か」という問いの答えはいまだにないが、「愛の破綻」については、幅広い答えが出ている。親密な関係になりすぎることによって、共依存という関係が発生する。お互いが自己言及し、お互いが受け入れ、お互いが自己解釈をする。自己解釈が誤解であった場合、お互いがお互いのために、相手の問題も抱え込んでしまう。簡単な例はアルコール依存症の男性と離れられない女性の関係だ。
相手のためにがんばることは、愛なのか。誰だって人助けは好きだ。しかし、関わりすぎると相手のためにならない。難しい線引きだ。そして過剰な関与は愛に見えるが、愛ではない。そんなどうしようもない人と一緒にいる自分は、自分を大事にできているのか。自分を大事にできない人間が、どうして他人を大事にできるのか。
「自分が大事」という気持ちがなければ、愛は発生しない。「ターシャの贈り物」という番組をご存知だろうか。筆者は残念ながら見ていないのだが、ターシャ・チューダーとは、想像力と創造力がある人物で、豊かさこそが愛だと思い、人と争わず、目の前に現れる動物たちや、成長していく植物に名前を付けたり、話しかけたりして、心豊かに生きた。自分を大事にすることで、愛が生まれると信じた。そのためには忍耐が必要だということがわかった。そしてその生活は、心豊かに、彼女を愛で溢れさせたのだそうだ。
会場からはさまざまな質問や意見が飛び交った。特に共依存については、どう対処したらいいか、という質問があった。結局はその人自身が気付かなければ、どうにもならないので、気付くまで放っておくしかないようだ。だが、いろいろな人生、いろいろな愛があるので、何がその人にとって幸せなのかはわからないし、その人が幸せかどうかを他人が決めるのは、僭越ではないか。自分の幸せ、愛のかたちというものは、自ら見出していくしかない。そう語る河野さんは、愛を探している凛とした旅人のようだった。











クリックで拡大写真がご覧になれます

▲ページの先頭に戻る
株式会社 冨山房インターナショナル  〒101-0051 東京都千代田区神田神保町1-3 冨山房ビル7F
TEL : 03-3291-2577 , 2578 / FAX : 03-3219-4866 / E-mail : info@fuzambo-intl.com
このホームページに掲載しているデータ、記事、画像、等の無断複写・転載を禁じます。

Copyright © 2017 書籍 絵本- 冨山房インターナショナル